妻の発病前:医師は神経症の診断すら下さず、抗鬱剤を、妻の言うままに
出していました。私は、15年も前から、自発的に薬をもらいに通院する妻を、
専門家が見ているから大丈夫だと思っていました。
発病直後:会社に電話があり、うめき声のようなものしか聞こえず、
私は会社を早退しました。帰ると、妻は不安げで、
「ついに、あちらの世界に引き込まれた。発狂した。」と述べました。
詳しく聞くと、抗鬱剤がきれたとのこと。急ぎ、精神科に行きました。
精神科で、1月前に処方した1月分の薬を、2週間で飲んだことが
判明し、薬の処方は1週間分に制限されました。
それからの1週間、妻は、「ミームが人類に陰謀を企てている」など力説しました。
妻は、9年前から、金縛りになるとか、金縛りはペットのインコが助けてくれたなど、
霊感が強いことを、むしろ、誇らしげに言ってたので、またかと思っただけでした。
妻は、「さっきの声は幻聴ではないか」としきりに尋ねてきましたが、確認不能でした。
扉を閉めても、たえず子供の声や階下の音が聞こえる社宅でした。
事故前日:通院直前にてんかんのような発作で倒れ、口から泡をふいたのですが、
医師は診察時間帯を10分遅れて着たのが迷惑げで、5分間の診察でした。
診察後に私のみ残され、「安定剤を飲ませるように」との指示でした。
最後に「入院を希望しますか」と打診がありましたが、いかにもベッドに
空きが無いような口ぶり。妻の最も恐れているのが入院であるのは分っていたので、
理由もなく入院というのはありえません。結局、会談も5分未満でした。
事故当日:朝から妄想がひどく、「インターネットで盗聴されている
など大声で訴え、私が寝室を出ることを押し止めました。
前日に医師から言われた通り安定剤を飲ませ、1時間後、落ち着いたと
思って出勤。私は、2日連続で年休をとるのは目立つので、年休ぎりぎりの時間に
あわてて会社に入ると、直後に、事故の電話がありました。
結局、分裂病の典型症状がいくつかあったのを、後に本で知りました。
事故で入院した病院で、事故前後の話をした直後、医局長の診断は
急性分裂病でした。(公式見解は「薬の飲み過ぎ」に後退しましたが)
当初、私は、事故前後の2つの病院の対応に、怒りを覚えました。
同時に、鬱病については本を読んでいたのに、分裂病など少ない病気に違いない
と決めつけていた自分に気づき、勉強しました。
その結果、現代医学が、この病気の危険回避に対し、いかに無力か理解し、
脱力感に襲われました。今は、家族が守るしかないと信念を持っています。
入院後:1ヶ月、妄想状態が続きました。
私が分かっても、同時に、火星人や水星人と会話してました。
「今、足電(足がビリビリしびれ、電話機になっている)してる」
などとも言ってました。「病院に巨大なアンテナがある」とも。
妄想だと説明すると、一応納得するのですが、すぐにまた、同じ妄想を訴えます。
今では、それが、いかに辛い体験かわかる気がします。しかも、妄想内容は1日で、
全く変化します。私達は、5感がまともだからこそ、正常でいられるだけです。
分裂病者の幻覚は、本当に聞こえ、見えるものだそうです。
この病気は、我々の想像を越える残酷なものだと思います。
今後のこと
妻の退院と同時に、妻の実家に預け、別居二年になります。考え抜いての結論です。
妻も、妻の兄夫婦も、「仕事を捨て、妻と暮らす」と言っていた私の豹変に驚きました。
妻には、「一緒にいると苦しいから」と説明しています。離婚を提案していますが、
妻はまだ、私のことを気遣うばかりで、不承知です。
私と暮らすほうが、妻の生命が危険である理由を、どのように説明すれば
理解してくれるのか、色々悩みましたが、とにかく一年の時間をもうけると決めました。
最近、妻と手紙をやりとりし、考えを述べ始めたので、両者の食い違いを明確に書きます。
今までは、別居の目的が自殺の危険回避にあるのを言えば、「同居できないなら死ぬ」と
なりかねないと危惧していました。現在の妻は、実兄とカウンセリングを受けているので、
私のやりかたの限界も、冷静に考えることができると思います。
1)妻は、ふたたび前のように私と暮らし、子供をもうけてくれると申しています。
私も、「子供が欲しい」気持ちは隠せないでしょう。
しかし、前回と同じ種類の数々のストレスが妻を襲い、私をも襲うので、その結論を
とることは不可能です。私の理性は、「絶対に子供を作ってはならない」という
矛盾したメッセ−ジとなって、妻に、やりばの無いストレスを課すことになります。
2)私には、事故の4ヶ月後にして、初めて警察から明かされた事故状況が、くりかえし、
見たようによみがえります。このフラッシュバックは、妻と子供の両方がいないとおきません。
しかし、妻が事故前後の記憶を戻したら、病気が再発しなくても危険です。
私は、現在、事故当時と全く異なる生活環境に居ます。
妻にも、全ての記憶を封じ込めて、全く違う人生を歩み始めて欲しいと願っています。
その準備が妻に整うまで、時間がかかっても、待つつもりです。
3)妻は現在、カウンセリングをすすんで受けており、発病前と同じ程度に回復しています。
同居しても、私が家事全般を前のようにサポ−トするでしょうが、前と違うことはあまりできません。
そんなデジャビュのような生活は、必ず、以前の記憶を戻す方向に作用するのが恐ろしいです。
妻と離婚することが、妻にしてやれる最期の治療的行為と信じています。
4)はっきり申して、世間体や愛など、問題ではありません。
男にとって、妻に自殺される恐怖は、味わった者にしか分かりえないものです。
世間に否定されるより、自分が自分を「最低の男」として全否定することになるのです。
私にとって、救われることは、妻が生きていてくれることです。
最終経過
妻は子宮頚ガンが判明して4ヶ月で逝ってしまいました。
抗精神病薬による無月経で不正出血に気づくのが遅れたと言います。
彼女の最期はガンの全身転移を知りながら騒がず、見事なものでした。
死の三日前には「次回には私と散歩しよう」という約束を果たすため
むくんで膨れ上がった足で立とうとしたそうです。
結局「離婚してあげる」と約束した結婚12周年を待たず、医師の
「あと一年もたない」という言葉に対して二週間もたずに逝ってしまった訳です。
二年半ぶりに妻のもとに訪れた時、抗精神病薬の口渇に苦しみ、
全身のむくみから食事禁止、水分摂取一日200CCに制限されていた妻。
三日間付き添って一回5CCずつ口を潤してあげたところ、
分裂病特有の無表情から一転不器用に微笑んで「ありがとう」と私を送り出した妻。
かつての彼女ほど笑顔の素晴らしい女性を今も知りません。
このような悲惨が繰り返されるのは我慢がなりません。